岐阜県商工団体連合会
どうなる?私たちの生活

民商・岐阜県連のあゆみ

  県商連の誕生まで

  敗戦後の税制は所得税、酒税をはじめ莫大な戦費調達のため の戦時税制を戦争が終わってもそのまま引きつぎ、その特徴は ひどい大衆課税の強化徹底でした。
  戦前の課税制度は、前年実績をもとにして割り当てる賦課課 税制度で、昭和22年4月から納税民主化の建前から所得税、法 人税、及び相続税について申告納税制度が実施されることにな りました。
  昭和22年から申告制になるので、これまでの賦課課税制度と の関係で昭和21年中の実績所得に対する課税が空白になる、商 工業者の場合は個人事業所得についてもインフレによる増収分 を考慮しないと不公平はことになる。そこで申告制度への切り 替えによる空白を埋めるという理由で大増税をはかったのが増 加所得税です。
 昭和21年12月、政府は臨時増加所得税法を公布施行し、税務 署は「インフレ所得の徴収」と「ヤミ捕捉」に重点をおいて業 者の申告などは、はじめから問題にせず、又業者もその制度を よく理解できず、税務署員でさえ、法とその運用を正しく理解 していたとはいえない実情でした。
  このような事態に対して占領軍と政府は強権的暴力徴税で攻撃 してきました。その方式が更正の乱発、滞納に対する強行処置 と「反対運動」の取り締まりでした。
 こうした徴税攻勢に反対する人々が全国各地にひろがり、 岐阜県でも昭和23年の申告期に、岐阜悪税反対同盟が結成される はこびになりました。
当時の記憶をたどりますと、一方的な更正決定の乱発、滞納 に対する狂人的な差し押さえなどで自殺者まで出る有様でした。 こうした人々が同年4月に岐阜市若宮町にあった震災記念堂 へ、別府茂氏、後藤政一氏、高橋和義氏、近藤末吉氏、栗本明 智氏等の諸氏の呼びかけで200余名があつまり、岐阜悪税反 対同盟結成大会を開きました。
 この大会で更正決定に対し異議申し立てをすることを決め、 会長に福田宗十郎氏、副会長に藤井宇造氏、後藤ひさ氏が選ば れました。事務所を副会長の藤井宅に決め、発足することになりました。 そして異議申し立ての準備をする事務所を会長宅と当時私の宅 が板金協同組合の事務所になっていましたので、この2ヶ所で 準備、活動をしました。
 当時の税金のしくみ、異議申し立てをする方法など全くわか らない始末で、弁護士、官庁吏員に問い合わせるなど、それは 大変なことでした。
間もなく準備をととのえ、同年4月末日に岐阜県納税民主化 同盟と改組し、総決起集会を、4百余名が美江寺公園で開き、 当時岐阜税務署(神田町共立ビル附近)までデモ行進をして、 税務署長交渉にのぞみ全員税務署内になだれ込みました。交渉項目は@再審査は納税民主化同盟を通じて行なう。A納税ずみの場合でも再審査を認めれば超過分は半年以内に払いもどす。B農民、中小業者に対する自家労賃をみとめる(戸主を除く)の要求に対して3項目全部認めるという成果をあげることが出来ました。とくに自家労賃要求は全国ではじめてのことで、後に高く評価されました。
 交渉中にM.Pが泥靴で机の上に上がり、ピストルをかまえて威嚇したりしたことは今でも忘れることは出来ません。(岐阜県納税民主化同盟の思い出 後藤ひさ  「創立50周年記念 民商・岐商連のあゆみ」 より転載)

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